![]() Laddy Mels ![]() Eva Mylott, his grandmother |
メル・ギブソン(本名:Mel Columcille Gerard Gibson メル・コラムキル・ジェラード・ギブソン)は、1956年1月3日ハドソン河ぞいの小さな街ピ−クスキル -- この俳優のプロフィ−ルを語る多くの記事にしばしば "ニューヨーク州の田舎町(upstate New York)" と紹介される -- で生まれた。 面白いことにニューヨークシティの住民もこの言い回しをよく使う。マンハッタン島の北に位置する州内のどの街も田舎と呼んでいるのだ。実際はピ−クスキルは独立戦争以前の18世紀、オランダ人が入植して作った小さな村が発展したもので、この州内でも最も古い街の一つなのだが;そこはマンハッタンから車で約30分の距離で、住めば - 私も近くなんだが - わかるが実際にはそれほど田舎じゃない。まあオーストラリア風にいえばちょっと奥地(the outback)といったところだ。 5人の女の子と5人(後に養子を迎えて6人)の男の子からなる11人きょうだいの6番目として生まれたメルは、アイリッシュカトリック系オーストラリア人の血を引いている。 メルという名前だが、1988年のプレミア誌のインタビューでティム・カヒルに語ったところによると、メルヴィン、あるいはその他の似たような名を縮めたものではないということだ。「単にメルなんだ....実はアイルランドの古い人名で、あそこには聖メルの大聖堂ってのがあるよ」 コラムキルというまんなかの名前は、彼の亡くなった母アンの生まれたアイルランドの地方に由来している。ゲ−ル語でその意味は「教会の鳩」という。ギブソンの一家はメルも含めてとても敬虔なカトリック教徒だ。 彼のあまり知られてない仕事の一つに、1992年の宗教ドキュメンタリー Greatest Stories Ever Told: David And Goliath (ダビデとゴリアテ)のナレーション担当というのがあるのを御存じだろうか。 彼と妻のロビンは産児制限をいっさいしてないし、もちろん妊娠中絶に関しては反対の立場をとっている。彼の父はキリスト教の伝統主義に教理上の限りでは忠実な人物で、第2回バチカン公会議で従来の教義の幾つかがリベラルな方向に改革されたことを憂いて、論争の的になるほどの批判的な著書を現在までに幾つか出版している。 メルの父方の曾祖父に当たる人は、1862年にアイルランドからオーストラリアに移住して来た。一族の名はマイロット(Mylott)だった:娘が生まれエヴァと名付けられた。長じて彼女は今世紀始めの頃オーストラリアでもっとも有名なオペラ歌手の一人となる。 第一次世界大戦が始まる少し前にアメリカに渡ったエヴァ・マイロットは、時をおかずタバコ産業に携わっていたスコットランド系南部人ジョン・ハットン・ギブソンと知合い結婚し二児をもうけた。ハットン2世(メルの父)とマイロットである。エヴァは1920年に亡くなるまでアメリカにいたが、オーストラリアの市民権は決して手放さなかった。これは後に一家にとって重要な影響を与えることになる。 ハットン・ギブソンは母親からすばらしい歌唱力を受け継いだが、一生の仕事とすることはしなかった。同じように父親のビジネスを継ぐということもしなかった代わりに、ニューヨークセントラル鉄道の制動手になる。 飽くことを知らない本の虫(メルもそうだ。ただし彼の場合は始めからじゃなく若い頃はもっぱらテレビや映画三昧で読書はその次だった)であるこの人物は、そのバラエティに富んだ広い知識を活かしてテレビのクイズ番組「ジェパディ!」で賞金2万ドルの大当たりをとった事がある。この金の一部で妻と11人の子供を伴って、さらに「田舎」のサルズベリ−ミルズ地区に移り、もっと大きな家を手に入れて落ち着くことになる。これが1962年の事だ。 間もなく仕事中の事故により背中を痛めてしまったハットンは、普通の仕事に永続的につけなくなる。それと前後して長男に忍び寄って来る議論の的だった例のベトナム徴兵に対する懸念や(後のインタビューでメルは、この件に関しては大きな理由ではなかったとただしている)、自分を縛る仕事もないという立場からある決心をするに至った - できるだけ早いうちに遠くへ移ること - 今こそ一家そっくりを母の故郷であるオーストラリアに移すのに障害者生活扶助として得た47万5000ドルを有効に使う時期だということを。 オーストラリアには移住に関する厳しい法律がある。家族に市民権を持つものがいるか、又は雇用関係が確立しているかだ。ハットンには後者のつてはなかったが、前者を持っていたので(母エヴァが固持していた市民権が大いに役立ったわけだ)1968年ベトナム論争のまっただ中にアメリカを離れ、ヨーロッパ旅行を経てシドニーに落ち着くことになった。 当時12歳だったメルにしてみれば、住み慣れた土地を離れ新しい場所に順応するのに始めのうちはすんなりというわけには行かなかったらしい。「近所の子供達からヤンクって呼ばれてずいぶんからかわれたよ」 1983年のあるインタビューでこう言う。「これに関しては結構つらい目に逢ったな」 ギブソン一家は恒久的にオーストラリアの住民になった後でさえアメリカ市民権を保有してるので、今日に至るまでメルは依然ヤンクと言えるかもしれない。あるいは完全に帰化してないオージーとも言える。 |