Jim Caviesel Mel Gibson, the director(photo: tuttoqui.it) Via Dorolosa (photo: seattlecatholic.com) |
カヴィ−ゼルが演じたイエスが、多くの人々がイメージする本物に気味悪いほど外見的にそっくりで、余りにもリアルな印象を与えたせいか、彼が毎日ロザリオを手にドン・アンジェロ司祭の教会に参拝するため急な坂道を日参する時に見せた純朴なマテ−ラの人々の反応は興味深い。 ほとんどの人が一瞬驚きの表情を見せその場に凍りつく。 カヴィーゼルに言わせるとそのあとの人々の反応はだいたい二つのタイプに分かれるそうだ。 笑いながらかん高い声で嬌声をあげるか、彼の足元に膝まづいて彼に触れながら「イエス様、イエス様!」と唱えるか。両方とも彼を戸惑わせていることは確かだが。 「僕の預かり知らないところで随分焦点を当てられていたようだ。だがそれら両極端の自然な反応には魅了される部分もある。彼らのそういう行動からいにしえの当時、人々がイエスに対して取った反応を ほとんど正確にうかがい知ることができるじゃないか。すごいことだ」 彼の声音は静かでモノトーンで幾分こちらをいらつかせるくらい厳粛だ。 The Passionは1995年度のオスカーの栄誉に輝いた傑作「ブレイブハート」以来初めてメル・ギブソンがメガホンを取る作品で、彼の頭の中で10年間培われていたという。ついこの前まで外部に漏れないよう細心の注意を払いロケハンもごく個人的に秘密裡に行なって来た。 そして今セットでは主演俳優に負けないくらい献身と情熱をもって働いている。 9月に行なわれた記者会見では、恥ずかしそうにイタリア語で、このプロジェクトは "...buono per l'anima, non buono per il portafoglio"つまり「魂のための作品であって財布のためにはならない」と表現してる。 ローマンカトリックの古い伝統に固執する人間としてメルはとりあえずはバチカンに敬意を表し指導を仰いだが、彼は個人的にこの映画のすべてを通して2000年前に実際何が起こったかを自分なりに解釈して撮影し表現することを自分に強く誓った。 そのための手始めがマテ−ラを見つけたことだった。この古い遺跡と50年前に放棄されたSassiの岩窟住居群を備えた町はどこから見ても往時のエルサレムだった。 「これは人々に語るのに時期を問わない話だと思う。またその舞台となった地域も必然的に含めて過去の歴史としてだけでなく、今もって 混乱に巻き込まれてる人々にとってもタイムリーなストーリーだと思ってる。なぜなら歴史はくり返すからね。キリストの人間性と共にその神性ももちろん見せたい」とメル・ギブソンは最近の質問に答えている。さらに; 「こうであっただろうと判断し理解したものがここにある。ぼくにとってはそれが真実なんだ。できるだけ本物に近づけて表現するつもりだ」 カヴィーゼルはセットではしばしば悲痛な気分に陥り、無口で 物思いに耽り、時には怒りっぽくなってることを隠さない --気短かなキリスト。 彼が背負うべき十字架はきっとそれなんだろう。どう考えてものほほんとした気分でやれる役じゃない。きっとその心は張り裂けんばかりだろうと察する。 だが彼に選択肢はない。まさに一生に一度の役だものね、と彼が説明する。何かが彼にそう運命づけたのだと。 彼はワシントン州マウントバーノンの南にある小さな町で5人きょうだいの一人として絆の強い家庭でこれ以上はないくらいまっすぐに育った。 夢中になったのはカトリックの信仰とバスケットボール。 初期の出演映画に「マイ・プライベート・アイダホ」のちょい役、ケビン・コスナ−の弟役で2、3行の台詞をしゃべった「ワイアット・ア−プ」などがある。 役を得るために、そしていい脚本に巡り会うために、彼はいつも俳優の守護聖人であるアルルの聖ゲネシウスとパドゥアの聖アントニ−に祈りを捧げるという。 何年か前の雑誌のインタビューで彼は神と聖人達が彼にふさわしい正しい道を示してくれることを信じると言った。その通り彼は聖母マリアのお告げによってバスケットの選手になることを止め演技の道を選んだ。 あの印象的な「シン・レッド・ライン」での霊的とも言えるウィット役のオーディションの直前に、彼は確かにロザリオが間違いなくこの役でブレイクするだろうというのを頭の中で聞いたと強く信じている。 (余談だがこの映画のプレミアの際、共演者で友人のショーン・ペンが彼の肩に手を回しこう囁いたと言う;さぁて、お前さんがこの世界でどう最後まで乗り切るか楽しみだ。あんた向きじゃないことだけははっきりしてるぜ) 確かに。だが当人は業界に向くように自分を変えるつもりはさらさらない。自分の信仰に誇りを持ってる。 だからといって聖書を持ち歩きところ構わず人に説き回るとか、やたら聖句を引用するとか他人の堕落を救おうとかそんなことはしない。彼と妻でやはりカトリックのケリーと共に彼らの道を歩んでるだけだ。 数年前彼は、1981年来毎月聖母が現われてお告げをするというボスニアのメドユゴーリェを訪れてた。それは人生の大きな転機、つまりイエスになることに繋がったと告白する。 「300世帯しかない小さな町にいて、ここがあの紛争の地にあったとは信じられないくらいの平和と愛を強く感じた。実はここはスロボダン・ミロシェヴィッチが破壊できなかった唯一の町なんだ。彼らは爆弾を落とそうと編隊で飛んで来たが厚い雲が町を隠して彼らは救われた。この町が今のこの役を得るのに手を貸したと信じてる。またもや聖母なんだ、僕を導いたのは」 さて明日、彼はイエスの腰布と衣を取り去って現代の普段着に着替え、 2週間のクリスマス休暇を家で過ごすためにLAに戻る。一方では開放感、他方では不安を感じつつ。短期間とはいえイエスの衣を脱いでる状態がいいことなのかどうか。 新年早々もっと過酷な審問のシーンが彼を待ち受けていることを承知している。それはきっと恐ろしいものになるだろうことも。 「今まで読んだイエスに関するありとあらゆる書物によると、僕らが知ってる、あるいは過去のどの映画で描かれたより実はもっともっとひどいことが彼に為された。メルと僕は徹底的にそれらを全部検討した。 でもその通り全部を描くことは出来なかった....イエスに対して....それに観客のためにも。彼らはカギ爪がついた鞭で彼を打った....文字どおり肉が裂けずたずたにされた...これはあまりにも酷すぎる」 だから二人は流血と拷問シーンには線を引いた。 「人はその内部に信じられないくらいの残酷性を秘めていて、いったん非情になると度が増していくことを知らしめるというポイントは、線を引いても達成できる。それ以上はやりたくなかった」 この映画は感情を取り扱ったものじゃないと主演俳優は言い添える。 この映画は収束を取り扱ったものだと。いいかえればあなたの心を変えるということだ。信仰にたち帰れと。 十字架上にいて彼は腰布につけてもらった小さな秘密のポケットに、微細な木片を忍ばせていたと白状した。ボスニアで与えられたもので伝えられるところによると実際にイエスがその上でみまかったと言う十字架の一部分だ。それは彼に力を与えた。 「今世界は生き地獄のようなものだ」 モデルのような外見と聖人の魂を持つこのハリウッド俳優が続ける。 「この映画は我々に基本的な疑問を投げかけるだろう....なぜ我々は幸せじゃないのか? なぜ我々の心はこうもお互い離れてしまったんだ?」 この映画に貢献することによって彼自身も学んでいる。 「せめて離れた心を再び繋ぎ合いたいと見た人に思わせたい、それがすべてだ」 「僕が為すことじゃない。自分はただそのための道具でありたい」■ back to Part 1 このページのTOPへ |