![]() Jim Caviesel After the Crucifixion....(photo: seattlecatholic.com )![]() Mel Gibson, the director(photo: tuttoqui.it) |
縛り上げられ、文字どおり身ぐるみ剥がされてイタリアの岩の上で十字架にさらされた15日間...この責めは長いハリウッドの歴史上もっとも異様な企画のひとつに全責任を負うメル・ギブソンにあるだろう。まず何といっても今は使われてない言語で演じなくてはならないんだから。 ハリウッド俳優の中でももっとも聖なる魂の持ち主といわれるジム・カヴィーゼルに今回の役柄についてコメントを貰った。 マテ−ラの古い遺跡がある地区。風が吹きすさぶ谷間の崖。高い十字架に固定された人物は腰布しかまとっていない。全身に生々しい傷そして体中が真っ赤だ。 ジムはここでずっと寒さと戦い、かなり骨の折れる仕事に専念していた。特に十字架刑のシーン。彼が再現してくれる。 「300メーターはありそうな崖に囲まれたグランドキャニオンみたいな谷間の縁に立てられた十字架。僕に見えるのはそんな景色だけ。 谷間の底に川が流れ、そこから風が吹き上げて来て自分がいる台地に文字どおり体当たりするんだ...」柔らかいちょっと怯えた感じの声。 「風が十字架を攻撃しようものならまさに骨まで震える。十字架が揺れ出すと、壊れるんじゃないかってどうしても考えてしまう...できることは震えることだけだ - あるいは祈るだけ 」 今までThin Red Line やMonte Cristoでもかなりの労働をして来たが決して心身ともこんなに消耗することはなかったという。 「十字架シーンの初日、低体温症ギリギリだった」と乾いた笑い声をあげる。 「そこで彼らはヒーターをたくさん用意してくれたんだが、風が強い時は助かった。でも風が止むと足が焼けるだけ。何か腹に入れようとしたが吐き気がしてだめだった。この役が生涯でも最もつらく難しいということを、そして途方もなく素晴らしいものだということを知った。 今、日程が半分終わってあと僕の出番はまだ大変なのが一回残ってる。いっぺんで済めばいいけど」 黒髪、長身、ぜい肉のない体つき、やや骨張った顔を見れば誰でも彼に神の子のイメージを見るのは正直だろう。事実メル・ギブソンのリストの第一候補だった。 さらにジムはイエス役を依頼されたのはこれが初めてじゃなくメルで4人目だと告白。今までは返事はいつもノーだった。今回承諾したのは -- メル自身が自宅にチャペルを持つほどの敬虔なカトリックである事実に動かされたという。メルならこのプロジェクトの重要性を誰よりも理解してる。 彼なら敬意を持って取り扱う資格があると約束されたも同じ。 さらに、メルは再現するのが可能で確実性の強いイエスの最後の12時間だけ--ゲッセマネの園からその死まで--を描こうとしている。 「ベン・ハー」のような壮大なエピックでは全くないし、スコセッシの「最後の誘惑」のようなジムから見れば奇想天外なものでもない。 メルとジムはどのようにイエスが死んでいったか敢えてぼかさず、残忍さすら避けずに正直に見せようとプランを練った。 俳優たちはヘブライ語、アラム語、ラテン語といった古語で話し字幕もつけない。(ハリウッドはさぞやゾクゾクしてるだろう) 彼が陥ってる架空の生き地獄はなにも絵空事ではない。今世界を見れば歴然だ。イエスが理不尽な死を遂げたことに由来するものだろうか。 「 実際毎日祈らずにいられない。祈りが必要だ」 携帯電話の向こうから彼が告白した。彼とアシスタントはローマの混雑した通りを車で移動中なのだ。 「義務だからではない、心の底からそうしてる。僕にとっては平安を得る唯一の方法だから」 彼はいつも十字架状のスカプラリオ(カトリック教徒が信仰の印として服の下に身につけている布)を離さずにいる。危急の時にはこれは特に大事なものになる;私はカトリック。司祭をすぐに呼んでくださいというサインなのだから。 過酷な環境の元での苦痛を伴う撮影にも関わらず彼は強く主張する--メルのこの作品に関わることができてスリリング、いや、光栄だと。 「この映画をこの時期作ること...尋常じゃない。クレイジーかもしれない。でも...」 そして彼は自分が演じることについては偶然であって、ほとんど神が定めたものだと信じてる。 「僕がカトリック教徒であるとか言うことは関係ないと思うんだ...単なる偶然だ。実際メルも僕が(イエスが死んだ時にそうだったとされる)33歳でちょうどいいということでオファーしたんだと思う。それが大きな理由。すべては神の意志で彼はこの作品に暖かい手を差し伸べていらっしゃると強く信じてる。いつも聖母マリアにお願いしてる。どうかあなたの息子をあなたの意に沿うよう演じられるように道を示してくださいと」 映画は2月までここイタリアで神への献身と映画作りへの愛と情熱でのみ撮影されるといっていいだろう。これはメル・ギブソン-- 彼自身いわく、ラテン語でないミサにはめったに出ない頑固な回顧主義的カトリック--も同じだ。 すでにロスアンジェルスでいやと言うほど、同業者達の呆れ顔と冗談だろうと言う決まり文句をどっさり頂戴しているので、あっさりと認めている。つまり死語となってる言葉を使う映画を配給してくれるところを見つけるのは難しい、いや、不可能かもしれないと。 しかし製作資金と監督の責を負う彼はこの彼のオリジナルによる聖書の物語が皆の心を打つと信じ続けている。 カヴィーゼルも同じ思いだ。 字幕の助けを借りなくても絶対みんな理解できると信じて疑わない。 「頭じゃなく心で理解できるんだ。そうとしか言えない」 電話の彼方でローマの喧噪が姦しい。でも彼は力を込めてそう言った。 「メルの執念は賞賛に値する。だれもやりそうもないこんなプロジェクトをひっぱっていくんだから。彼のエネルギーと情熱は並外れてる。神が与えた彼の天分の一つだろう。可能な限り長く、誰よりもハードに仕事ができる能力がある」と11月以来共にイタリアで仮住まいしてるリーダーを評価した。さらにこう付け加えた。 「彼の中にふつう以上に穏やかで平和な心が宿ってるのを認めるのは簡単だった。撮影が進む課程で彼のうちから絶えまなく彼を動かしているものの大きな原動力はそれだと言うことに誰でも気がつく。 そのせいで愛に満ちた実に美しい感情がいつもセットを包んでた。 そのおおもとはメルなんだ....僕だけじゃない、みんな毎日ハードでつらかった....彼は時には強い調子で自分の意見を通すこともある。監督だからね。でも彼の心の中はみんなに対する愛でいっぱいだと言うことは誰でもおのずとわかる。だからどんなにつらくてもやれた....」 ここで彼はメルが彼を自宅に呼んで役をオファーした日のことを回想する。 「聞いた瞬間の僕の考え...なんてこった、こりゃ一か八かってやつじゃないか! 僕の半分はノーと言いたがっていた。あとの半分はこう言ってた。考えるな、反応しろ。で、イエスと答えた」 「翌日再び彼と会った。おかしなことに彼はイエスをやることを思いとどまらせるかのようにこう言うんだ。『これをやることがどんなに大変か、わかってるのかい? これだけは言っておこう。僕なら絶対やらないね』だから僕はこう答えた....僕らはそれぞれみんな背負うべき十字架を持っている、でしょう?って。これで決まった」 このインタビューを行なった当日カヴィーゼルはちょうど17時間に及ぶポンテオ・ピラトと百卒長達による、ロープと鎖でなすがままに痛めつけられる尋問の場面を撮り終えたところだった。 十字架刑から比べれば楽なことは確かだが、それでも過酷な仕事だった。幸いなことにそれらはもう過去のこと。彼はあとは年が明けて鞭打ちのシーンを残すのみ。 正直言ってまたもや彼をして心身共にくたびれること間違いないだろう。 「皮膚が破れ、肉が見えるまで打たれた体を作ると言うことはメークに途方もない時間がかかると言うことだ。 10時か11時にセット入りするために、時には朝2時には起きて8時間くらいかけてそれをやる....日焼けしたあと体中がむずがゆいだろう、ずっとあんな感じ。おまけに天気が悪くて屋内で待機してた時はそのまま眠らなくてはならない」 Part 2 このページのTopへ |