
*スタニスラフスキー・システム
演技メソッドの一つ。もとはロシア演劇のために提唱されたが、アメリカに入り、リー・ストラスバーグのアクターズスタジオによって主にブロードウェイを中心に映画の世界にも広がった。簡単にいえば、自己を殺してまで役柄に同化する。それに対してシェークスピア演劇を中心としたイギリスのメソッドは役柄に常に客観的な目をすえ、時には批判し自己と役柄とが対等である。
(carinyaより....大昔、大学の授業で習った覚えがあるがあやふや。大筋は間違っていないと思うけど。とにかくアクターズスタジオ系の俳優は多い。マーロン・ブランド、ジェイムズ・ディーン、ロバート・デニーロ、ダスティン・ホフマン、アル・パシーノ.....でも映画では見る側からは分かりにくい要素)
|
|
STUDIO: 初めてハリウッドで仕事をした時のことは覚えている?
MEL: 実を言うと実際に仕事をする前に打ち合わせやミーティングの為に何度か来てたんだ。何よりもまず僕のために喜んで働いてくれるエージェントを見つけなければならなかったから。終いに僕の話を聞くのをOKしてくれた人に出会うまで何人もの人物を訪ねたけど、みんな慇懃に僕を追い返した。うん、正直でいたいから言うべき事は言わなくちゃ。あの当時この街は大嫌いだった.....今でも心から好きとは言えないし、ここに住み着くつもりは全くない。でもここで仕事をしてる。不思議だ。
S: 最初アメリカの俳優陣の中に入って自分が異質な存在だと感じたりした?
M: そりゃね、どうしても....(笑)だってけっこう長いことオーストラリアで育ったもんだから再びアメリカに来た時、こりゃすっかりやり直さなきゃと思ったね。何もかも異様な感じで特にL.A.はそうだった。リズムを掴むのに時間がかかったよ。初めのうちは戸惑ってまるで山出し。初めて都会に来たお上りさんって心境だった.....
S: それは演技方法の場合にも言えた?
M: ああ同じだ。オーストラリアの演劇学校で学んだわけだが、そこではアメリカの方式よりもずっとイギリスのやり方に近い。初めてアメリカの俳優たちと組んだのはピーター・ウィアーのA Year of Living
Dangerously([危険な年]'82)の時でシガニー・ウィーヴァーやマイケル・マーフィが共演だった。そこで僕がどんなにドギマギしたか言えないまでもすぐに一つの大きな"違い"があることに気がついた。彼等のやり方にはスタニスラフスキー・システム*がすっかりしみ込んでいる。僕の場合にはそれは全くないんだ。
S: それの何が君のスタイルと違うのか?
M: まず演技の技術的なスタイル自体が本題ではないと言っておこう。というのはスクリーン上で見られる結果においては両者にはほとんど違いはないからね。役にどう取り組むかというような、もっと内面的なことに起因する違いさ。
かなりのアメリカ人俳優たちは、役にどっぷりはまり込んで1日24時間、全撮影期間中その役になりきったままでいるようにしている。僕としてはその必要性は全然感じない。それにたとえ自分がその方法を試してみても、上手くいかないだろうって思ってるね。
S: 自分の外見や演技力が人並み以上に秀でてることを証明する義務感といったような意識は全くなかった?
M: うん、そういうことは全く意識しなかった。ただ単に自分の職分をよりよく全うしようと努めただけさ。時にはなるほど、誰かが僕を何かのジャンルに押し込めようとするけど....昔の映画について書かれた記事を今でも覚えてるんだが、それによると僕はスタジオ54('70年代に流行ってたN.Y.のクラブ)のボーイに似つかわしく、この手の男は頭は空っぽで、できることといえばCMに出てふたことばかり台詞をいうのが精々だって。ショックでかなり傷ついたね。そいつが何といおうと僕は真剣に仕事をしたという自覚を持ってたんだから。
S: 君が俳優になったのは"偶然"によってだと聞いてるが.....
M: ほんとだよ。まぁほとんど偶然だね。姉が僕にそうと教えずに演劇学校の入学願書に記入させたんだ。時をおかず試験の準備をし始めた。既に心の中で演技への関心が生まれててそれを楽しんでいたよ。とにかくこの偶然から生まれたチャンスを避けることは何もしなかった。
previous / next |